きょうは、ここまで。

みつけたり、かんがえたりするブログ。

映画とポップコーン

映画館に行ったとき、ポップコーンを買う派の人と買わない派の人がいる。買う派の中でも、王道の塩味とキャラメル味に分かれる。そして、たま〜にチュロス派もいたりする。僕は大体、ポップコーンは買うようにしているんだけれど、それにはちょっと恥ずかしい理由がある。

 

ゆるい作品ならいいんだけど、映画ってのはどうもハラハラさせるのが好きみたい。そういうシーンが来ると、僕なんかは映画にどっぷりになって、結構苦しい。主人公が痛めつけられると、自分ごとみたいに思えて、目をつぶりたくなる。

 

そんなとき、ポップコーンをパクッと食べる。そうすると、あぁ、僕は映画館で映画を見てるんだ。これは映画だから、最後はハッピーになるぞって具合で、現実に戻れる。ある意味冷めてしまっていることが、楽しむ秘訣だったりする。

 

人生も、あんまりどっぷりにならない方が、楽しんでやれると思っている。仕事とか、人間関係とか、特に辛い時は、周りが見えなくなる。そうならないように、ポップコーンを食べる。上手くいかないけど、ラストは良いことあるさって俯瞰しておくと、力が抜けていいんじゃないかな。

 

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怒り

「嫌われる勇気」という書籍で有名になった、アドラー心理学というものがある。今は難しい話はしないことにして、その中の面白い考え方を共有したい。それは「怒りはコントロール可能な感情である」というもの。あ、間違いがあったらごめんね。

 

嫌なことがあったとき、ついカッとなって怒ってしまった、と言いがちだ。まず先にムカつく原因があって、結果として怒りが湧く。だから怒るのは仕方ないと。だけれども、そうじゃない捉え方もできるんだ。

 

アドラー心理学では「怒るという目的が先にあって、そのために怒りという感情を作り出す」としている。にわかには受け入れ難い主張だけど、さっきまでガミガミ怒ってたお母さんが、電話に出た途端に別人になるってこと、結構ある。だから、怒りというのは出し入れ可能な感情なんだよ、きっと。

 

ちなみに、僕はほとんど怒らない。いや、怒らないことにしている。相手のために叱っているんだという人を時々見かけるけれども、叱っている時点で他人任せになっている。相手に態度を改めるよう言うより、自分から何か工夫する方がずっといい、と思っている。

 

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巨人の肩に立つ

バイトをしていると「なぜ勉強しなければいけないんですか」と生徒に聞かれる。きっと誰もが一度は抱く疑問だろう。僕は勉強が義務だとは思っていないので「やらなくてもいいよ」と言ってしまうけれど、何かを学ぶこと自体は、かなり価値のあることだと思っている。

 

勉強はいわば、口寄せの術のようなものだ。勉強ができるということは、世の中に転がっている情報を正しく理解し、正しく使えるということに他ならない。それはまるで、直接会うことが出来ない死者や遠くに住む人を呼び出し、アドバイスを貰っているようなものではないだろうか。

 

数学を学べば歴代の天才数学者達が複雑な問題に答えを出してくれるし、歴史を学べば過去数千年に渡る人類の成功と失敗から数々の教訓を得られる。学ぶということは、遊戯王で死者蘇生を無限に使いまくっていることなわけで、つまりチーターなのだ。現代人が建物を建て車を走らせ政治を回せているのは一重に、巨人の肩に立っているからである。

 

さて、学力と並んで重視されるのがコミュ力だ。学力が「会えない人」に協力してもらうための力だとすれば、コミュ力は「会える人」に協力してもらうための力だと言えるだろう。人間、一人では大したことは出来ないが、学力とコミュ力があれば、文字通り百人力なのだと思う。

 

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いちねん

この季節になると、みんなが「いちねん」を振り返っている。もうそれは激動の2016年だった人もいれば、いやぁ、ぼーっとしてたら過ぎちゃってました、なんて人もいる。でも、過ぎた時間っていうのは、みんなに等しく1年間、365日だった。

 

だから、ちゃんと振り返ったら365日の思い出があるはずだけれども、ほとんどは忘れている。逆に、日にちは覚えてなくても、はっきりと思い出せる日もある。僕は、失恋したことなんかは、映画を見るみたいに思い出せる。

 

覚えているかどうかは、心が動いたかどうかで決まると思っている。何をしたかっていうのは、あんまり関係ない。ほら、一緒に旅行に行ったのに友達は全然覚えてなくてガッカリとか、酷いこと言われたのに言ったアイツは忘れているとかは、よくあること。

 

みんなが同じ1年を生きているようで、みんなが違う「いちねん」を生きている。別にあっという間に過ぎたっていいけど、心に残る日が多い「いちねん」にしたいな。

 

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調べればわかること

もう今の時代は、みんなスマートフォンを持っていて、知りたいことは、いつでもどこでも調べられるようになった。ほんの一昔前は、僕が中学や高校の時でさえ、何か知りたいと思ったら今の何倍も時間と手間がかかったものだ。

 

つまりは、調べることのハードルがとんでもなく下がった。そこで僕は「簡単に何でも調べられる!」って喜べる性格じゃなくて、ネガティブだから「みんなが調べられるから、知ってないと取り残されるな」と考えてしまう。

 

似たようなことだと、誰かの話を聞いた時に「それ興味あるんです!」って言いにくくなったなぁということ。だって、興味あるって言ったはいいけど「じゃあ〇〇って知ってる?」「いや、知らないです」ってなるのやばいじゃん。興味あるなら、なぜ、その手に持ってるソレで調べてないんですか、という話。

 

知識の話だけではなくて、やっぱり、全体の水準が上がるということは、幸せなことばっかりじゃないよ。みんなが出来ることには、少なくとも、経済的な価値はないんだから。

 

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大喜利

僕は面白いことが好きで、最近は大喜利にハマっている。大喜利というのは、お題が出てそれにボケるという遊びだと思っていい。それで、今日は大喜利を普段やらない人向けに伝えたいんだけども、大喜利ってボケよりお題が大事だよ、ということ。

 

昨日出されたお題は「アブノーマルな趣味を教えて下さい」というものだった。(会話の流れでそうなったから、これを出した友達は悪くないけども)これは大喜利のお題としては難しい。このお題はつまり「面白い趣味を言え」ってことで、ボケ方がボケる人に丸投げされている。

 

いいお題にするにはいくつか方法がある。例えば、「日常と非日常」。趣味を使うと「1000年後の未来で流行っている趣味とは?」なら考えやすい。趣味=日常、未来=非日常になっている。試しにボケてみると、「デアゴスティーニの週間アンドロメダを作る」とかかな。いや、面白いかは置いておいて、ボケとして成り立つようになってくるのを感じて欲しい。

 

「緊張と緩和」もお笑いによく使われる。怖いものと可愛いものをくっつけると思えばいい。お題を作ってみると「プロの殺し屋、ゴルゴ14の意外な趣味とは?」とかになる。「ライフルで鳩に豆を食わせる」とかが答えかなぁ。

 

長くなったけども、大喜利は楽しい。そして難しくない。お題が良ければ、誰でも面白いことは言えるはずなんだよ。

 

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人類は賢くなったのか?

天文学の教授のお話を聞く機会があって、結構面白かった。イベント的にはかなりカオスなもので、大学教授とお坊さんがそれぞれ科学的な立場と宗教的な立場から宇宙を語るという風変わりなもの。今回で19回目らしい。

 

そこで教授が「生物学的に賢いということと、科学技術の発展とはあまり関係がない」と言っていた。生物学的に今の人類と同じ生物、つまりホモ・サピエンスが生まれたのが大体15万年くらい前。そして、現代文明が栄え出したのが5000年ほど前。

 

つまり、人類は今の脳味噌になってから14万年くらいは、文明をおこしていなかったことになる。14万年経ってやっと字を書いて建物を建ててみんなで暮らし始めた。そしてそこからたった数千年で宇宙に行ったんだから、発展の速度がすごくイビツなわけだ。

 

最近になって急に人類が賢くなったとは考えにくいわけで、結局はなんにも賢くなってないんじゃないかな。それにしても、誰かが「文明や!」って言うまで何でこんなに時間がかかったんだろう。

 

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